由緒・歴史
社記によれば、天智天皇が薩摩地方御臨幸の折り、当地の大杜に御滞興あらされた由緒の地として、慶雲3年酉午(西暦 706年)2月10日、賀茂縣主堀内氏、指宿氏の遠祖が勅を奉じて、天皇の神霊、遺器を奉斎して葛城宮がご創建されましたが、168年後の貞観16年甲午 (西暦874年)7月、長主山(現在の開聞岳)の大噴火があり、開聞九杜大明神(現在の枚聞神社)の葛城宮にご避難されたいとのご神託により同年11月遷 宮され当杜を[開聞新宮九杜大明神]と称され、爾来指宿郷の総氏神として地方開拓の祖神、航海安全、諸業繁栄の守護神として崇敬され、明治維新に際し「揖 宿神社」と改称され現在に至っております。特に、薩摩藩代々藩主の尊崇殊の外篤く、32度に及ぶ社殿の改修等全て藩費をもって施行されております。
由緒・歴史(原文)
人王三十六代孝徳天皇ノ御宇白雉元年庚戌、長主山(開聞嶽)窟ニ於テ仙人塩土翁命錬行ス、麋鹿来リテ法水ヲ舐ム、惣チ懐 孕ノ粧アリ二月十八日辰刻其麋鹿遂ニ口ヨリ妙相ヲ出シ神女ヲ産ス、仙人之ヲ養育シテ僧智通ニ與フ(智通ハ瑞應院ノ開山ナリ)御名ヲ瑞照姫ト稱ス、其女子二 歳ニシテ大職官鎌足公取テ撫育シ大宮姫ト名ツク、生質美麗ニシテ三十八代天智帝ノ皇妃ニ立給ヒ御寵愛甚タ深シ、白鳳元年壬申正月廿一日雪打ノ催アリ、大友 王子ノ母后嫉妬ノ事アリシヲ以テ潜ニ近江國志賀ノ王宮ヲ忍ヒ出テ伊勢國阿濃津(濱田トモ云フ)ヨリ出船シ給ヒ、仝六月朔日山川ノ牟瀬ノ濱ヘ御着船アリテ本 山ニ住ミ給フ、天智帝ハ別離ノ情ニ堪ヘス一日一ノ寳劍ヲ帯ヒ一ノ白馬ニ騎リ潜ニ山階山ニ行幸シ終ニ還御アラセラレス丹波路ノ嶮難ヲ凌キ大宰府ニ潜幸シ給ヒ (御壽四十六歳)、大宰府二月ヲ越ヘ御船ニシテ日州志布志ト櫛間トノ間ニ御船ヲ留メ給フ、白鳳二年癸酉五月朔日当指宿多良浦ニ御着船アリ、今多良神社ノ社 場ナリ、直ニ風穴ニ於テ翫樂ノ御遊アリ、其後風穴ヲ崇メテ神ニ祭リ年穀ヲ祈リ十月中ノ『チュウ※1』ノ日ニ御遊ニ準シ神祀ヲナセト云フ茲ニ蘇山翁ナルモノ 大宮姫御居所ヲ御尋ネノ為メ來リ居ラレシ、帝ニ面謁セラル西方曽山現爾社ハ右蘇山翁ヲ祀リシ所ナリ、帝ハ風穴ヘ御滞輿カ又ハ当神社ノ場所ニ滞御アラセラレ シカ詳ナラス、仝五日長主山ヘ御幸ノ時当ノ上ニ御休輿ノ松林アリ御腰掛ノ松ト稱ス、千余年ヲ経テ明和年間落倒セリ(後植繼ナセシモ今ハナシ)爰ニ於テ天皇 ニ水茶ヲ献セリ故ニ其ノ地ヲ沫ヶ迫ト名ツケ給ヘリ、今申誤ツテ『センハク※2』ト稱ス、其後水波ノ祠ヲ建テ古今神事水場トセリ、夫レヨリ長主山ヘ行幸離宮 ニ入リ給ウ御在世三十二年四十二代文武帝慶雲三年丙午二月十日崩御シ給フ御壽七十九歳仝十日指宿堀内両家ノ遠祖勅ヲ奉シテ神靈遺器ヲ安置シテ天皇ノ廟ヲ建 テ葛城宮ト稱ス今ノ西宮是ナリ、四十二代元明帝和銅元年戌申十一月三日大宮姫在世三十六年ニシテ崩御シ給ウ御壽五十九歳、百六十八年ノ後五十六代清和帝貞 觀十六年申午七月長主山噴火ニ際シ御神託ニ依リ仝十一月十日開聞九社ニ準シ八社ヲ勸請シ開聞新宮九社大明神ト誦セリ、後明治維新ニ際シ今ノ名揖宿神社ニ改 称セシト云フ
※1:「チュウ」は刃に下線
※2:「セン」は草カンムリに津:「ハク」は迫
※1:「チュウ」は刃に下線
※2:「セン」は草カンムリに津:「ハク」は迫